菩提山城(3) [お城]
続きます。
麓には、菩提寺というお寺がありました。
あと、これは芭蕉の句碑。
「此の山の悲しさ告げよところほり」
凶作の時に、芋を掘り出して飢えをしのいだというこの地方の逸話に対して一句読んだようです。
その付近の鳥居で、完全に一時方向が分からなくなってしまった記念の一枚。無事帰れてよかった!
こちらが、半兵衛さんのお墓のあるお寺です。
しっかりお参りしてきました。(お墓の写真は、本ブログの方に載せています。)
宿泊したペンションのオーナーから、干し柿の差し入れをいただきました。関ヶ原の隣り町で柿って…三成ファン的にアレですが…美味しかったです。(柿に罪はない…)
菩提山城(2) [お城]
続きます。
そして、菩提山に咲く椿。半兵衛様を思って、ちょっと休憩。
やっと本曲輪に到着。翻るでっかい幟
向こう側の山を見ると、ここの高さがわかりますね。
ちょっと下の方に、腰曲輪もありました。
ここが空濠。あんまり、高低差、わからないですね。
菩提山城(1) [お城]
ここから菩提山城跡の記事になります。
こちら、竪堀です。空堀って、写真だと凹凸が分かりづらいのですが、深いです。
この辺りが、大手曲輪とのこと。おそらくこの辺に大手門があったのではないかと。
この辺に切岸があったと。木が多くて、ちょっとわかりませんでした。
ちょっと、勾配がわかりますね。この幟で元気になりました。
台所曲輪跡です。狭いですが、ここだけ、平地なのがすごくわかる場所でした。まだまだ続きます。
竹中半兵衛のまち(3) [┣その他の旅]
竹中半兵衛をめぐる旅は続きます。
竹中陣屋の門です。
石垣、当時のものだと思いますが、野面積みながら、見事な石の嵌まり具合。
石垣見て、かなりテンションが上がった私を、友人たちは気の毒そうに眺めていました。
ここから、菩提山に登り始めました。何かのお社のようですが、不明です。
ハイキングはけっこう大変でしたが、このような電波塔もあったので、少なくともスマホは問題なく使えました。
竹中半兵衛のまち(2) [┣その他の旅]
続きです。
竹中一族のゆかりの品々を展示している菁莪記念館にて。こちらにも、かいちゃんときほちゃんがいらっしゃったみたいです。
そして、(1)で紹介した五明稲荷に匿われていた松寿丸を演じた天彩峰里ちゃんの千社札も
こうやって、役作りのため、そして、宣伝のために、作品にゆかりのある場所を訪れるって、素晴らしいことだなーと思います。垂井町の皆様も、「燃ゆる風」をご覧になられたでしょうか。
こちらは、(1)で紹介した、松寿丸(黒田長政)お手植えの銀杏の木の切り株のようです。400年以上生き延びたそうですが、昨年2月に倒壊の恐れがあるとして、切り倒されました。内側は腐食してしまったのかもしれないですね。
こちらは、竹中陣屋です。
ここ垂井は関ヶ原に近く(電車で一駅)、関ヶ原合戦の時、ここに竹中氏の陣屋が作られました。
もちろん、その時には、とっくに半兵衛は亡くなっていますので、この陣屋は、子の竹中重門のものです。
別角度から。
「陣屋」と呼ばれているのは、江戸時代に竹中重門が旗本の身分になったためで、その前は、岩手城と呼ばれていたとか。
つまり、城、なんですね、ここ。どおりで立派だと思った。
重門の陣屋なのに、なぜか、銅像は、半兵衛重治のもの…知名度の差
竹中半兵衛のまち(1) [┣その他の旅]
GWを利用して、戦国の旅に行ってきました。まずは、竹中半兵衛が菩提山城を築いた岐阜県の垂井町へ。
駅前の観光案内所には、垂井町を訪れた「燃ゆる風」の主演コンビのお写真が飾られていました。
そこで、レンタサイクルを借りたかったのですが、1台しかなく、3人組の我々は、2対1に分かれて観光に出かけました。で、合流して、まず訪れたのが、ここです。
松寿丸が匿われていた地に建つ「五明稲荷」です。
松寿丸とは、後の福岡初代藩主・黒田長政のこと。
父・黒田官兵衛が織田信長に仕えていた頃、荒木村重が謀反を起こし、これを説得に向かった官兵衛は捕えられ、幽閉されてしまいました。官兵衛が戻らないため、寝返ったと思った信長は、秀吉に、官兵衛の一子、松寿丸を殺害するよう、命じます。
この時、秀吉の軍師だった竹中半兵衛が自分の一存で松寿丸を匿い、信長には殺したと嘘の報告をしたのです。
はたして、官兵衛は幽閉されていた有岡城から助け出され、松寿丸も生きて許されたのです。しかし、その時には、半兵衛は既に病で亡くなったあとでした。
五明稲荷に行ってみると、足元には、スミレの花。今年上演された「燃ゆる風」が咲かせたのでしょうか。
五明稲荷の鳥居です。
なにやら瓦のようなものもありました。でも説明書きはなく…一応、ご紹介しておきます。
お手植えの銀杏については、メインブログ「健全な夜のおたのしみを求めて」の5/3の記事にございます。