赤穂城(6) [お城]
続きです。
こちら、天守台から撮影した写真。けっこう高さがあるんですね。下に見えるのは、紅梅・白梅かな
天守台上の写真です。対角で撮影してみましたが、けっこう広くて、これなら十分立派な天守が築けただろうな、と感じました。実際に築くことはありませんでしたが…。
こちらは桜が満開。
さっき見た池の辺りですね。
どこもかしこも桜
ということで、大石神社に向かいます。
続きます。
赤穂城(5) [お城]
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クリックすれば大きくなります。
いよいよ本丸なのですが、なにしろ明治時代に取り壊されているので、造るとすれば再建しなければならないわけです。再建する場合、色々な角度からの写真や設計図のようなものが現存していれば、どうにか復元できるのですが、そういうものがない場合は、こんな風に発掘現場に、ここが●●の場所でした…みたいに、プレートを置いて、イメージしてもらいます。
これまでずいぶんいっぱいお城に行きましたが、復元できなかったお城も多いんですよね。
どの城も天守の写真はずいぶん残っているのですが、本丸の写真って少ないから、平屋とはいえ、なかなか再建できるところは多くないようですね。
あと、本丸って天守に比べて地味…というのもあるかも。
庭はうまい感じに繋がっているようです。
小さい池の向こうは、盛り土になっていますね。たぶん、向こう側は、石垣なのではないかと思います。
向こう側にあるのは、天守台です。
でも、天守は築かれていません。築城の請願は幕府の許可を得ることができましたが、さすがに天守はダメだったようですね。天守を築くということは、戦争するぞということにほかなりませんから。
この角っこのところは、物見台とかを置くイメージだったのでは…なんて、思ってみたり。
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赤穂城(4) [お城]
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この方は、赤穂城築城を指導した兵学者・儒学者の山鹿素行先生の銅像だそうです。
本丸にやってきました。
本丸の門です。明治10年代に本物は取り壊されてしまったそうで、こちらは、平成8年に復元されたもののようです。平成8年…って、1996年大震災の翌年の兵庫県で、そんな事業が…なんかすごい
こちら、門のアップです。入ります
入りました。内側から撮影。ここは虎口になっていたはず。
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赤穂城(3) [お城]
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こちらは大石内蔵助が住んでいた邸の門だそうです。ちゃんと残っている(もちろん木造なので改修されてます)のがすごい
こちら、本丸庭園。ちょうど桜が満開。忠臣蔵と桜は日本人の心ですね。クリックすると大きくなります。
広々としていて気持ちよかったです。
本丸が近づいてきました。
石垣の内側が見られる貴重な写真です。正面を見ると美しい切込接の石垣です。その内側ってこんな感じなんです。こんな風に小石を使って隙間を埋めているんですね。
続きます。
赤穂城(2) [お城]
続きです。
赤穂城までの道のりには、様々な看板や解説版が設置されていて、単なるお城マニアや、忠臣蔵ファンの方などに、もっと深い赤穂の姿を伝えてくれる。
たとえば、江戸時代に敷かれた赤穂の上水道が、武家屋敷だけでなく町屋にまで配水しており、江戸・福山と並んで日本三大水道と言われていることなど、実際に赤穂に行ってみなければ、知ることのなかった情報を得ることができました
赤穂城は、初代藩主浅野長直の指示により、赤穂藩家老にして軍学師範である近藤正純設計のもと、慶安元(1648)年から13年かけて築城。海に面する地形を利用し、近世軍学に縄張手法を取り入れた変形輪郭式の海岸平城なんだとか。
って、さら~っと書かれていると、へぇ~って思っちゃいますが、1648年といえば、3代将軍徳川家光が死んだ年ですよ。もうね、日本はめっちゃ平和なわけですよ。城、要る
江戸時代に城を作る…ということは、え、これから戦争を起こそう(=幕府に弓引こう)ってことと思われるわけで、もちろん幕府の許可がない限り城なんか築けない。だから、嘆願を繰り返すわけです。万が一、いざ、幕府に弓を引こうなんて者が現れた時、ここが、幕府を守る要になりますよ、必要ですよ…とプレゼンテーションを繰り返し、やっと許可が下りて、作られたのが、この赤穂城なわけです。
戦国時代の急ごしらえの城ではなく、軍学に則って、誰もが納得するような、しっかりと備えのできた城が建造された…ということになります。
しかし…そのわずか40年後に、赤穂事件が起きて、藩は取り潰され、城はあっさりと開城、ご先祖様の無念の声が聞こえてくるようです…
海に近い平城ということで、赤穂では、井戸を掘っても海水が出てしまうのだとか。
それが、日本三大水道のひとつになる上水道の整備に繋がったのでしょうね。外堀の下をくぐらせた上水を、サイフォンの原理で水圧によって吹上げさせ、三の丸⇒二の丸⇒本丸と巡らして、最終的に瀬戸内海に排水されていたとのこと。すごいですね、江戸時代の水道施設
ちなみに、この水道、赤穂城よりずっと古く、元和2(1616)年に敷設されたのだそうです。
おお、なんと、シェイクスピアの亡くなった年…そう考えるとすごい技術ですね。
大手門です。
石垣は、すべて切込接(きりこみはぎ)。城としての新しさを感じます。
見事にわかりやすい桝形虎口です。
こちらは、番所を再現したもののようです。
続きます。